死生観と
ふと、上のような記事を見た。
死生観は人それぞれで、特に日本人は決まった神を持たないため、諸外国よりも
多様性がある。
パスカルは「人間は考える葦である」と言う。
「死生観」を感じて生きることは、人間特有なのかもしれない。
記事内では愛憎により生きる意味を持たせているという人がいた。
自身に当てはめると果たしてそうなのか。
……
おそらく、違う…と思う。
愛も憎しみも一過性のもので、生きる意味を持たせるほど人生に作用していない。
好奇心あるいは優越感がそれに近い。
漫画の「マギ」では魔法を使えぬ非魔導師(ゴイ)は欲望にまみれ家畜同様であるが、魔導師は知的好奇心が一番の欲望であり、世界を真に導く者として相応しい。
そんな場面があった。
あの場面を見た時、自分はこの生き方に近いと感じたものだ。
それはさておき、愛憎は生きる糧になりえるのか。
答えは多分、YESなんだろう。
復讐を題材とした読み物は多いし、人生全てを否定されたかのような出来事が起これば、そうならざるを得ないのは理解できる。
しかし、それは破滅に向かって走っているだけ。
復讐が成れば、生きる意味を失い、空虚な心は満たされないだろうに。
社会人になり、それまで付き合いのあった大学時代の部活OBに手痛く裏切られた時は、先の見えないトンネルに閉じ込められたかのようだった。
闇雲に踠いて、今がある。
憎悪に飲まれていたら、今はないだろう。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
川端康成の「雪国」冒頭。
今までいた場所と、トンネルを越えた雪国は異なる世界。
世界が変われば生き方も変わる。
「今」があるのは、あのちっぽけな世界から抜けたからで、そこだけは感謝している。
箱庭に生きていたら、世界は小さく、外を知ることもない。
井の中の蛙大海を知らず、もしくは映画の「トゥルーマン・ショー」のようで。
世界は広いし、見たこともない情景をインターネットで見ることができる。
それでも、百聞は一見に如かず。
やはりこの身で、この目で見てみたい。
死を迎えたら、少し上空で自分の体を見ていた…
なんて臨死体験談はネットでよく見る。
死をもってして世界を見渡し、生が完結するのかもしれない。
その時こそが知的好奇心を最も刺激できる時なんだと思ったら、死はそれ程怖くはない。
なんてことを、思う初夏の夜。