茶太郎の日々雑記

興味のあることを日々アウトプットしていきます。面白いなーと興味持って頂けたら幸いです。

死生観と

news.nicovideo.jp

 

ふと、上のような記事を見た。

 

死生観は人それぞれで、特に日本人は決まった神を持たないため、諸外国よりも

多様性がある。

死生観 - Wikipedia

 

パスカルは「人間は考える葦である」と言う。

「死生観」を感じて生きることは、人間特有なのかもしれない。

 

記事内では愛憎により生きる意味を持たせているという人がいた。

自身に当てはめると果たしてそうなのか。

……

おそらく、違う…と思う。

愛も憎しみも一過性のもので、生きる意味を持たせるほど人生に作用していない。

好奇心あるいは優越感がそれに近い。

 

漫画の「マギ」では魔法を使えぬ非魔導師(ゴイ)は欲望にまみれ家畜同様であるが、魔導師は知的好奇心が一番の欲望であり、世界を真に導く者として相応しい。

そんな場面があった。

WEBサンデー|マギ

 

あの場面を見た時、自分はこの生き方に近いと感じたものだ。

 

それはさておき、愛憎は生きる糧になりえるのか。

答えは多分、YESなんだろう。

復讐を題材とした読み物は多いし、人生全てを否定されたかのような出来事が起これば、そうならざるを得ないのは理解できる。

しかし、それは破滅に向かって走っているだけ。

復讐が成れば、生きる意味を失い、空虚な心は満たされないだろうに。

 

社会人になり、それまで付き合いのあった大学時代の部活OBに手痛く裏切られた時は、先の見えないトンネルに閉じ込められたかのようだった。

闇雲に踠いて、今がある。

憎悪に飲まれていたら、今はないだろう。

 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

川端康成の「雪国」冒頭。

今までいた場所と、トンネルを越えた雪国は異なる世界。

世界が変われば生き方も変わる。

 

「今」があるのは、あのちっぽけな世界から抜けたからで、そこだけは感謝している。

箱庭に生きていたら、世界は小さく、外を知ることもない。

井の中の蛙大海を知らず、もしくは映画の「トゥルーマン・ショー」のようで。

 

世界は広いし、見たこともない情景をインターネットで見ることができる。

それでも、百聞は一見に如かず。

やはりこの身で、この目で見てみたい。

 

死を迎えたら、少し上空で自分の体を見ていた…

なんて臨死体験談はネットでよく見る。

死をもってして世界を見渡し、生が完結するのかもしれない。

その時こそが知的好奇心を最も刺激できる時なんだと思ったら、死はそれ程怖くはない。

 

なんてことを、思う初夏の夜。